司馬遼太郎の「文章作法」
近くのゲームソフト、漫画の中古屋の片隅の書棚に司馬遼太郎「以下、無用のことながら」(文春文庫)は、あった。単行本未収録のエッセイから厳選した71篇、530頁の結構な厚みだ。しかし、氏の平明な文章は、その量を忘れさせ、一気に最終頁まで運んでくれる。いつものことだ。
この文庫の解説に司馬遼太郎の「文章作法」について触れた箇所があった。内容は以下の通りだ。いたく感銘を受けた。昨日訪れた友人に、この話をしたら足下に否定された。曰く「読みやすい、わかりやすいものは駄目です」と。私は、返答に窮し、なんと答えたか忘れた。相変わらずだ。
「文章を書こうとする若い人たちに、『センテンスは荷車のようなものです』と助言することがあります。『一台の荷車には一個だけ荷物を積むようにしなさい。一個ずつ荷物を積んだ荷車を連ねてゆけばそれでいいわけで、欲ばってたくさんの荷物を積んではいけません』といったりするのです。読み手は、一つのセンテンスを読むのに一つの意味しか理解ーもしくは感ずることーができないものだと思うべきです。入学試験に出題される現代文のなかで、一つのセンテンスに複数の意味を載せている文章がよくありますが、ああいうものは悪文だと思い定めるべきです。さらにいえばこのことを訓練することによって関係代名詞を持たない日本語の不自由さをどこかで解決する道がひらけるようにも思います。
ただ荷車の形は均一ではなく、大小長短が必要で、当然、荷物にも大小があり、軽重があることになります。その荷車の列のつらね方ーつまり大小や長短、もしくは軽重をうまく按配することによって、文章全体に美的ななにごとかが作為でなくごく自然に出てくると思うのです。たとえ不幸にして出なくても、悪い文章だけは決してならないと思うのです。」
上記の文章作法の例のような箇所を、以下、氏の文章から引いてみたいと思う。
「……白といえば、雪こそあつかっていないが、淡い墨色の色面に、ゆったりと欠けた空白の表現が蕪村によってなされている。例として、半月の白をあげたい。
月を描くのに線が用いられず、そこだけが紙の地の白として無造作にのこされていて、しかも形をととのえていないのである。そのくせ、銹びた銀のかがやきをもつ。
これこそ漢語でいう月魄(げっぱく)であり、和語でいう月代(月白)であり、月という以上に月の精であるにちがいない。
その月は、蕪村の『峨嵋露頂図』という作品の左手にかかってかがやいている。」
(P494 「非考証・蕪村 雪」
勉強になったところは、
P201「浄土ー日本的思想の鍵」
-「善は、いまの言葉で言えばとびきり良質の人間、悪は、いまの言葉で言うと普通の人間という意味です。さらには人間は全部釈迦にはなれないんだと、親鸞は言っているのです」
P252「日本仏教小論ー伝承から親鸞まで」
-「日本仏教は、いわゆる『大乗仏教』です。
大乗仏教は、釈迦の仏教とは断絶したものです。」
このあたりは、ノートをとってまとめてみたい。
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